和佐隆弘の論文など - Opinions of Takahiro WASA -


by wasatakahiro

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 方法の確立としてのデカルトの哲学原理は、その対象を自然に向けたとき、ガリレオの地動説という科学革命をもたらした。認識の主体としての個の確立は、イタリアに発したルネサンスとドイツやスイスでのろしを上げた宗教改革によってすでに準備されていた。この個人主義に立脚したヒューマニズムは、社会統治システムとしての政治思想に革命をもたらさずにはおかなかった。ホップスによる『リヴァイアサン』つまり近代国家の誕生である。一般にコペルニクス革命といわれる天動説から地動説への「宇宙
の中の地球」としての世界認識体系の転換は、トーマス・クーンによって”パラダイムの転換”として提起され、学問方法論に革命的衝撃を与えた。
 クーンは「科学と思想史との結合は”コペルニクス革命”の多様な構造へ接近するための必須の要件である」とし、まず、惑星の天文学の道具であったデータおよび概念をしっかり把握していなければならない、という。そのうえで「科学的概念というのは観念であり、その意味でそれらは思想史の主題である」と重要な指摘を行っ
ている。
 「技術的な科学上の資料は本質的だが、それらが機能しはじめるのは、歴史的あるいは哲学的枠組における位置が決まってからである。ひとたび位置が決まると、その原資料は科学の発展の様相、科学上の権威の性格、および科学が人間生活に影響を与えるそのやり方を示す」というのである。
 これが一九四九年以来、ハーバード大学の科学の『総合教育』コースのひとつとして行われた一連の講義から生まれた結論だという。ときに一九五七年、今から四十年も前のことである。クーンは「彼(コペルニクス)の『回転について』はおもに数式、表および図からなっているが、それを理解できたのは、新しい物理学、新しい空間概念および人間と神との関係について新しい考えを生み出すことのできる人だけだった」と。科学的概念さえもがこのように”観念”だとすれば、政治や経済を対象とする社会科学的概念は、もっともっと”観念”の要素が支配しているはずである。ケインズの
『一般理論」が”ケインズ革命”と呼ばれたのも、この意味にほかならない。

⑦以下に続く
pp.87-97, 日本及日本人(平成9年陽春号), 1997年4月
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by wasatakahiro | 2009-03-17 21:42 | 既発表のもの
 橋本内閣の六大改革の大きな柱に金融システム改革、いわゆる”日本版ビッグパン”がある。この改革の理念は、①フェア②フリー③グローバル―の三つである。資源配分を市場にゆだね、資源最適配分に向けて機能するための原理だとうたっている。
 今、何故、こんな文明社会の常識が叫ばれなければならないのかということである。そこでの問題は次の三点に分けて考えなければならない。
 まずもっとも基本的な認識として、日本社会の現実が近代文明社会とは異質だという事実の確認である。それは、具体的に何がどの同ように異質なのか、いつから続いているのか、その影響はどの程度なのか、などという問いを含めてである。
 次に、その原因である。明治開国から百三十年にもなろうとしている今日、文明開化の意に反して作用したものは何なのか。習慣や伝統といった歴史や風土のせいなのか、それとも、単なるタテマエにすぎず、ホンネは別のところにあったからなのか。あるいは、文明を妨げる特別な要因でもあったのだろうか。
 そして、もっとも重要なのは将来展望である。それは未来史をぜう読むかということだが、そこに近代文明社会における日本民族の意思としてどういう国家像を想定するかが説明できなければならない。当然、価値判断を含むものだから、その客観性が要求される。
 歴史から学ぶこと、そして古典を読むことが不可欠の条件である。近代と前近代を分かつものとして、われわれはデカルト哲学を知っている。一般には、世界観の転換をもたらしたとされるが、それはあくまでも結果であって、デカルトの価値は世界認識の方法の確立だった。それが彼の『哲学原理』であり、「理性を正しく導き、諸々の科学における真理を探求するための」と規定じた『方法序説』にほかならない。
 われわれは人生において自らの誤りを何回となく体験する。誤った認識が大きな不幸につながった場合、その原因に関心を強める。不幸を避けたいからである。アメリカの独立宣言にあるように、「造物主によって幸福追求の権利を与えられている」のである。この幸福追求に不可欠な要素が理性である。デカルトは、この理性ほど人間に公平に与えられているものはないだろう、と挑発する。『方法序説』を手にとったものに、これを否定することを拒否することから、哲学を始める誤った認識からの解放としての真
の探求には、理性の作用を必要とする。つまり、理性を正しく導くことであり、そのための方法を提示したのである。理性はそれが正しく導かれてこそ理性であり、それは方法と一体である。方法こそ理性の存在証明なのであり、「我思う、故に我あり」となった。

(⑥以降につづく)

1997年4月,日本及日本人(平成9年陽春号)
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by wasatakahiro | 2009-03-07 21:02 | 既発表のもの
 市場経済は分業と交換を車の両輪としている。そのエンジンは利潤動機であり、ガソリンは資本だが、その潤滑油は信用である。利潤や信用を代表し、測定するのが貨幣で、その最高額紙幣の一万円札の肖像は福沢諭吉である。昔は聖徳太子だった。
 
 この一万円札のデザインの変更は、実に象徴的である。聖徳太子といえば、「和を以って貴しと為す」である。これにたいして、福沢諭吉は「学問のすすめ』の第三編で「一身独立して一国独立の事」と題して、文明開化を説いている。その第一条は「独立の気力なきものは、国を思うことを深切ならず」とし、第三条では「独立の気力なきものは、他人に依頼して悪事をなすことあり」とまで言い切っている。
 
 福沢より三、四十年ほど前にアメリカ社会をみたフランスの思想家で、後に外務大臣までつとめたトクヴィルは、福沢の独立精神と文明社会のかかわりを「地位の平等」という観点から総括してみせた。それが人権を法との関係でとらえ、社会の統治科学としての政治学に大きく貢献した『アメリカの民主政治』である。
 その序論はこう述べている。「地位の平等は、公共的精神にある一定の方向を、法律にある一定の表現様式を、治者に新方針を、被治者に特殊な慣習を、与えている」と。

 さらに「この地位の平等という事実が政治的慣習と法律を超えて、その影響力を拡大している」どし、「特殊な事実を生みだすかのように見える母体的事実」を発見したという歓びでつづられている。
 
 企業はもとより、家計の稼ぎ手である労働者や投資家といった経済主体の独立性=地位の平等こそが、資源最適配分に向けて市場経済が機能するための必須の条件である。そういう独立した経済主体の形成過程に理論的基礎を与えたのがアダム・スミスの『国富論』だった。その出版がアメリカの独立宣言と同じ一七七六年だったと
いうことは、なんとも象徴的である。

(⑤以降につづく)

1997年4月,日本及日本人(平成9年陽春号)
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by wasatakahiro | 2009-03-04 22:34 | 既発表のもの
経済運営の結果として、国民経済の姿として一方における膨大な債務残高(国・地方の財政赤字の累積)と他方における世界最大の債権大国(対外純資産残高)がある。そして自由な取引の中で決る価格の動きとして、一方における大幅な株安、地価安と、他方における円高である。その中で、家計や企業、金融機関、政府機関は内外で膨大な不良債権を抱えている。

 この現実は、いったい何を意味しているのだろうか。不健全きわまりない。矛盾だらけである―といっても、説明したことにならない。こんなはずではなかったのではないか。全く人知をもってしては不可抗力な天災だったとでもいうのか。そんなことはありえな
いわけで、われわれ日本民族がつくっている国家の意思による選択の結果以外の何ものでもないのである。

 そういう前提に立たなければいけないといいたいのである。そうしないと、解決策を考えることはできないからである。日本という国は、近代国家でなくてもいいなどという人はいないだろう。主権在民の法治国家である。私有財産を憲法によって保障しており、株式会社を中心とする私企業の経営による自由な競争社会ではないのか。そして、その制度や法律を決める国権の最高機関を構成する政治家は、有権者である国民が自由な選挙で選んでいる。国会は多数決という民主政治のルールで運営されているのである。

 世界最大の債権国が、国家経営の根幹ともいえる財政で危機に直面している―ということが象徴しているように、市場経済における資源配分に問題があったのである。期待されている最適配分に機能しなかったばかりか、むしろ資源最悪配分になったと断じるほかない。まさに、アダム・スミスの言う正義の法を無視した場合の”見えざる神の手”の仕わざである。

(④以降につづく)

1997年4月,日本及日本人(平成9年陽春号)
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by wasatakahiro | 2009-03-03 15:02 | 既発表のもの