和佐隆弘の論文など - Opinions of Takahiro WASA -


by wasatakahiro
 橋本内閣の六大改革の大きな柱に金融システム改革、いわゆる”日本版ビッグパン”がある。この改革の理念は、①フェア②フリー③グローバル―の三つである。資源配分を市場にゆだね、資源最適配分に向けて機能するための原理だとうたっている。
 今、何故、こんな文明社会の常識が叫ばれなければならないのかということである。そこでの問題は次の三点に分けて考えなければならない。
 まずもっとも基本的な認識として、日本社会の現実が近代文明社会とは異質だという事実の確認である。それは、具体的に何がどの同ように異質なのか、いつから続いているのか、その影響はどの程度なのか、などという問いを含めてである。
 次に、その原因である。明治開国から百三十年にもなろうとしている今日、文明開化の意に反して作用したものは何なのか。習慣や伝統といった歴史や風土のせいなのか、それとも、単なるタテマエにすぎず、ホンネは別のところにあったからなのか。あるいは、文明を妨げる特別な要因でもあったのだろうか。
 そして、もっとも重要なのは将来展望である。それは未来史をぜう読むかということだが、そこに近代文明社会における日本民族の意思としてどういう国家像を想定するかが説明できなければならない。当然、価値判断を含むものだから、その客観性が要求される。
 歴史から学ぶこと、そして古典を読むことが不可欠の条件である。近代と前近代を分かつものとして、われわれはデカルト哲学を知っている。一般には、世界観の転換をもたらしたとされるが、それはあくまでも結果であって、デカルトの価値は世界認識の方法の確立だった。それが彼の『哲学原理』であり、「理性を正しく導き、諸々の科学における真理を探求するための」と規定じた『方法序説』にほかならない。
 われわれは人生において自らの誤りを何回となく体験する。誤った認識が大きな不幸につながった場合、その原因に関心を強める。不幸を避けたいからである。アメリカの独立宣言にあるように、「造物主によって幸福追求の権利を与えられている」のである。この幸福追求に不可欠な要素が理性である。デカルトは、この理性ほど人間に公平に与えられているものはないだろう、と挑発する。『方法序説』を手にとったものに、これを否定することを拒否することから、哲学を始める誤った認識からの解放としての真
の探求には、理性の作用を必要とする。つまり、理性を正しく導くことであり、そのための方法を提示したのである。理性はそれが正しく導かれてこそ理性であり、それは方法と一体である。方法こそ理性の存在証明なのであり、「我思う、故に我あり」となった。

(⑥以降につづく)

1997年4月,日本及日本人(平成9年陽春号)
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# by wasatakahiro | 2009-03-07 21:02 | 既発表のもの